搭載された核兵器を狙い戦艦を乗っ取ったテロリストに、
元特殊部隊のコックが単身挑むサスペンス・アクション。

沈黙の戦艦

UNDER SIEGE

1992  アメリカ

103分  カラー



<<解説>>

合気道などの日本武術を基調としたアクションで人気のセガールが、『ダイ・ハード』の亜流的なアクションに挑戦した作品。元特殊部隊のコックが、戦艦という密室の中でテロリスト相手に孤立奮闘する姿を描く。題名は、当時、売れていた漫画「沈黙の艦隊」を明らかに意識したもの。「沈黙」という単語は、一貫して寡黙で冷静なキャラクターを演じるセガールを良く表し、セガール映画の代名詞となった。本作の好評を経て、セガール主演の「沈黙」シリーズなるものが乱発されたが、それからのほとんどの作品に関連性はない。本作の続編は、「沈黙」シリーズの三作目として公開された『暴走特急』だけである。
『ダイ・ハード』のブームに乗って作られたと思われる作品で、比較されることも多い作品だが、シチュエーションを借りているだけで、似ているようでまったく非なる作品である。『ダイ・ハード』では普通のオッサンがいかにしてテロリストを追いつめるかにサスペンスが求められていたが、本作では、主人公がはじめから超人として設定されていることが、二つの作品の決定的な違いとして挙げられる。「主人公が超人である」というのは、『ダイ・ハード』が否定したシチュエーションで、本作はむしろ従来のヒーロー・アクションに戻した向きもある。しかし、主人公が「完全無欠」である点は、『ダイ・ハード』とも従来のヒーローものとも異なっている。このような違いが出たのは、主演俳優のキャラクターの差異にあることは明白だ。例えば、ブルース・ウィリスがテンパっていない主人公を演じていたなら、観客は白けてしまうだろう。それと同様に、セガールが弱い主人公を演じていたのでは、それこそ観客は白けてしまうに違いない。つまり、セガールは「完全無欠」であることが求められるアクション・スターなのである。
セガール映画のほとんどがそうだが、主人公が「完全無欠」であることによって、主人公に関するスリルとサスペンスは失われているが、セガールが涼しい顔で敵をバッタバッタと倒していく姿には、失われたサスペンスを補うだけの爽快さがあるのである。ただ、本作に関しては、セガールの持ち味である肉体アクションはあまり見ることができない。その代わり、銃や爆弾を駆使したゲリラ戦を展開し、彼が特殊部隊の精鋭であったことを何気なく表現している。そういう意味では、一連のセガール映画の中では、ストーリーはともかくとして、主人公の背景や戦艦という舞台のディテールを大事にした作品と言えるかもしれない。また、風刺めいた演出として、まさに主人公がテロリストと銃撃戦を繰り広げている「現場」と、その現場の現状を把握できないまま高官たちが好き勝手なことを言い合っている「会議室」との温度差もなかなか面白い。『踊る大捜査線』の名場面も、実はこの映画からいただいたものだったりして。
主人公に関するサスペンスは失われていると述べたが、その代わりに、テロリストを取り巻くサスペンスが描かれているのが興味深い。テロリストのボス役には、アンドリュー・デイヴィス監督の前作『ザ・パッケージ 暴かれた陰謀』に出演していたトミー・リー・ジョーンズが起用。これまで脇役中心だった彼の出世作となった。ジョーンズ演じるテロリストは、物語のはじめの方では、部下たちにテキパキと命令を下せる頼れるリーダーとして描かれる。しかし、テロリストが艦内でゲリラ戦を繰り広げているコックの正体に気付いたあたりから、この映画は断然面白くなってくる。立ちふさがる敵を物ともせず確実に核心に迫っていく主人公。一方のテロリストは、駆け引きも通じない恐るべき挑戦者の出現に焦り絶望する。本来なら両者の立場は逆だが、「完全無欠」の主人公に企みを完膚なきまで叩きのめされるテロリストの焦燥にサスペンスが置かれているのである。そして、ジョーンズの鬼気迫る表情と悲惨すぎる最期によって、ヒーロー・アクションであるにも関わらず、主人公よりもどちらかというとテロリスト側へ「哀れみ」という形で感情移入させるという逆転現象が起こっている。「逆転」と言えば、ヒロインがいきなり裸で登場するところも、ある意味、定石を引っくり返しているようだ。



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