満男のガールフレンドの泉が家出をした。
別居中の父親を探している泉に協力した満男は一緒に大分まで向かう。
シリーズ第43作。
男はつらいよ
寅次郎の休日
1990
日本
106分
カラー
<<解説>>
ゴクミが満男のマドンナして登場する連作の第2編。これまでは基本的に夏と年末の年二回興行だったが、本作より最終回まで年末一回だけの興行になった。前作は満男の家出騒動を描いたが、今度は、ゴクミ演じるガールフレンド・泉が家出。満男が泉に協力し、泉の父親探しの旅を描く。寅次郎のマドンナは、前作で泉の母親として登場済みの夏木マリ。ゲストには、第17作『寅次郎夕焼け小焼け』で父・宇野重吉と親子共演を果たしていた寺尾聰が登場。物語の舞台は大分県日田市。なぜか、クレジットの字体が筆文字からゴシック体および明朝体に変化。
本編の冒頭やラストで、満男のモノローグ(幸福論を主とする)を積極的に取り入れている点でも通り、前作より主人公が寅次郎から満男にシフトさせてきた。満男やそのガールフレンドの泉を物語の中心に持ってくると、仮に青春映画として傑作になったとしても、「男はつらいよ」らしさを失ってしまう可能性が高い。そんな危惧があったかどうかは定かでないが、本作には、満男の青春を描く一方で、往年のファンを喜ばせるような演出がいくつも用意されている。
まずはじめに冒頭のコント仕立ての夢が復活した。37作『幸福の青い鳥』以来、久しぶりのことである。寅次郎が平安時代の歌人に変身した夢で、大和言葉の台詞のぐだぐだ加減が笑える。また、本編では、近作ではあまり見られなかった、初期から中期にかけてのお約束の連発で楽しませてくれる。寅次郎がこれまでの恋愛についてからかってきた社長と喧嘩(取っ組み合いまではならなかったが)とか、寅次郎が“くるまや”から出て行こうとした瞬間にタイミング良くマドンナが登場するとか。後者の演出は、泉と泉の母の両方で行なわれるというサービスの良さだ。そして、寅次郎の得意技と言えばアリア(独り語り)である。満男と泉の結婚を先走って考え、一人芝居を交えながら少し長めのアリアを披露。寅次郎のシーンで最大の見せ場となっている。
今回、泉の母親がマドンナになるというのは、必然とも予定調和とも言えるが、二人の関係はなかなか面白い。寅次郎の恋というより、癒しを求めたマドンナからの一方的な愛情のようだ。泉の母親は典型的なダメな母親として描かれ、それを自覚している。しかし、家庭の悩みは、彼女がホステスを務めるクラブの後輩やお客さんには絶対に言えない。そこで出会ったのが寅次郎で、彼女は堰を切ったように悩みを打ち明けるのである。夏木マリ演じる母親がなかなかの迫力で、悩みを聞く達人である寅次郎でさえ圧され気味。助言も出来ずにただ相槌を打つばかりだ。
寅次郎が家出をした見内を連れ戻しに行くいうのはシリーズ中期以降の定番だ。また、満男と泉の親探しの旅は、39作『寅次郎物語』からの発展でもある。親探しの旅は、満男と泉の家庭環境の違いを強調している。家庭環境が違えば、それに伴なう物の捉え方も当然違ってくるだろう。本作は、人の生き方と幸福の関係、つまり、幸福観の相対性をテーマとしていて、それはラストの満男のモノローグでも明確にされている。また、二人がそれらのギャップをどのように埋めていくのかも興味の対象で、次作以降のドラマへの期待も高める。もちろん、そのギャップを埋める手伝いをするのが、他ならぬフーテンの寅だったりするのである。『寅次郎物語』と同じく、寅次郎たちが擬似家族の演じる場面も再現されている。これも家庭環境のギャップを現す例であり、以前の擬似家族とははまた違った味わいがある。この場面は一見、楽しそうに見えるが、四人にの誰にとっても残酷なシチュエーションであったことは言うまでもない。
連続して登場した泉、そして、主人公である満男の成長も見どころのひとつ。一作の中での成長ももろんだが、作品をまたいでの成長にも注目したい。これまでにシリーズ中で再登場した登場人物には歌子やリリーなどがいて、それもどれもが再登場の時には確実に成長しているが、泉や満男にも同じことが言える。幸いにも、一年毎に製作されるため、演じる俳優の成長がそのまま役に反映されているようだ。ゴクミも泉役に慣れたのか、前作に比べて言葉使いや態度が満男に対してフランクになり、それが、二人の成長や関係の発展の表現にもつながることになった。
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