落ち目の中年映画俳優と若い人妻。
言葉の通じない東京の中心で孤独な二人が出会う。

ロスト・イン・トランスレーション

Lost In Translation

2003  アメリカ/日本

102分  カラー



<<解説>>

『ヴァージン・スーサイズ』に続くソフィア・コッポラ監督の二作目。主演は、『ゴーストバスターズ』などのコメディでお馴染みのビル・マーレイ。ユーモラスな表情の中に中年男性の悲哀を巧みな芝居で見せていく。共演は、子役出身で当時はまだ十代(!)だったスカーレット・ヨハンソン。マーレイとは対照的に影を強調した芝居だが、大人びた態度を見せたかと思えば、すぐにあどけない顔に変わったりと、「迷い」を体現するかのような複雑な表情を見せてくれる。日本側のキャストとしては、DIAMONDO★YUKAIこと田所豊がCMディレクターとして、藤井隆がTVバラエティでおなじみのキャラのマシュー南として、それから、HIROMIXが本人役で出演している。
物語は、東京にCM撮影のためにやってきた落ち目のスターと、カメラマンである夫の仕事について来た若妻の二人が、宿泊先のホテルのエレベーターで出会うところからはじまる。そして、二人が一緒に過ごした数日間を、抑えたタッチで淡々と描いていく。一見するとそう見えてしまうが、決して、カルチャー・ギャップというシチュエーションありきのコメディではない。まず、異文化の国で出会った男女のロマンスがあり、それを軸にしつつ、孤独な男女の癒しを描いていく。雑多なエピソードを積み重ねているように見えながら、“脱出”、“批難”といった一貫したモチーフやイメージが繰り返し用いられていることから分かるように、明確なテーマをもった作品なのである。時折、物語からやや脱線した形で見せるカルチャー・ギャップ・ネタも、ロマンスに彩りを添えるユーモラスな要素として、効果的に使われる。しかし、日本という異文化の世界が舞台にしたことで、もっとも重要なのは、カルチャー・ギャップの面白さなどではなく、理解し難い言葉や文化を持つ世界に、たった二人きりで置かれているという状況にある。原案は、ソフィア監督の経験を基にしているため、舞台は東京ということになっているが、「人生からの避難地」という機能さえ果たせれば、実は世界のどこでもよかったはずである。もし、東京が選ばれた理由があるとすれば、それは、世界的にあまりに有名な国際都市でありながら、世界的にあまりに特異な場所であるから、といったところだろう。
ソフィア監督のセンスで鮮やかに撮られた夜の東京の街の描写は、特に奇を衒ったところはなく、新しいイメージも無い。しかし、日本人の視点から少しだけずらすことによって、そこがまぎれもない東京でありながら、東京以外の街のように見えてくるから面白い。この日本の都市の描写は、『ブラックレイン』とならぶ秀逸さで、おそらく、これが、主人公たちが代表とする外国人から見た東京であり、日本であるのだろう。東京に「不思議の国」としての印象を与える前半を経て、物語は、その「不思議の国」の中に置かれた主人公たちの孤独や不安といったものを描いていく。ヨハンソン演じる若妻シャーロットは、夫の出張でひとりぼっちになった後、おきまりの観光コースをたどり、積極的に日本を楽しもうとする。しかし、結局、何かが足りなくて、落ち着かない気分だけが残されていく。一方、マーレイ演じるハリウッド・スター、ボブは、金のため、そして、家族から逃げ出すために東京にやってきた。しかし、そこは想像以上に居心地が悪く、来日してすぐに早く脱出したいと思い始める。劇中の東京は、日本の観客に媚びることなく、(ややオーバーなところもあるにはあるが、)率直に奇妙な街として描かれている。しかし、シャーロットとボブが出会ってから、少しずつ二人を取り巻く環境が変化していく。居心地の悪かった東京が、二人で一緒に行動することにより、遊びがいのある遊園地へと変貌していくのである。二人が活きいきとした表情で駆け抜けていく東京は、冒頭で見せた異様な世界とは反対の素敵な印象を与え、ロマンスの舞台としては最高のシチュエーションとなっていく。
東京での日々を楽しむ一方、二人は、「不思議の国」へ身を置いたことにより、自分自身の人生を客観的に見つめなおす機会を得ることになる。カルチャーギャップをネタにしたロマンスの多くは当事者同士の間のギャップを描いていくが、本作はそうではない。そこにあるのは、当事者とそれを取り巻く環境の間のギャップであり、そのギャップを強調することにより、気付かれなかった二人の共通点が浮き彫りになっていくのである。特に、ベッドの上で寝転がって、互いの人生を振り返っていく場面の会話は、ロマンスの秀作『恋人までの距離』で恋愛観や人生観を語りあった会話を彷彿とさせる素晴らしさ。前作『ヴァージン・スーサイズ』においては、少女の心を描くことに集中しすぎたためか、男心の描写に関してはあまり出来が良いもではなかったが、本作では、「はじめて子供が生まれる日は恐ろしかった」などとマーレイに語らせるといった、男心もフォローした脚本(アカデミー脚本賞受賞)の完成度は非常に高い。
役者の演技、脚本共に素晴らしい作品だが、監督のセンスが特に光っている部分があるとすれば、それは中盤のカラオケ店のシーンかもしれない。主人公たちが日本の友達と歌っているところを延々と撮っているだけという何気ないシーンではあるが、そのホームビデオのようなダラダラさ加減は、普通の商業映画ではありえないレベルである。コッポラの娘だから許されたシーンだと邪推したくなるが、本作の製作にあたって、父親の威光の影響はなかったはずはないだろう。「巨匠コッポラの娘」という最大の武器を自分の表現のために使い切る監督のしたたかさには、批判を抜きに降参させられる。これからもワガママを駆使して、驚くべき作品を見せ付けてくれることを期待したい。



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