気の狂った米空軍司令官がソ連への核攻撃を発令してしまう。
米ソ冷戦中の核開発競争を皮肉ったブラック・コメディの傑作。

博士の異常な愛情
または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか

( 博士の異常な愛情 又は私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか )

DR. STRANGELOVE
OR HOW I LEARNED TO STOP WORRYING AND LOVE THE BOMB

1964  イギリス

93分  モノクロ



<<解説>>

映画史に残ることが約束される巨匠キューブリックのフィルモグラフィは、メジャーに配給された作品を数えればわずかに12作というシンプルなものである。しかし、この“12”という数字は、彼が“妥協”という言葉を知らない完璧主義の監督であった所以のものである。常に最先端を走ってきた監督の構想は、現在の撮影技術より先行してしまっていることもしばしば。一本の映画のために異常に長い準備期間を設け、撮影のために新しい技術を開発してしまったという逸話も残るほど、映画作りには独自の拘りがあった。本作以前にすでにヒットメーカーの一人であったキューブリックだったが、映画作りへの“異常な愛情”の本領が発揮されたのは、本作をはじめとするSF3部作だろう。本作、『2001年宇宙の旅』、『時計じかけのオレンジ』の成功によって、監督はその地位を不動のものにしたのである。
抑止力と称して兵器の開発に躍起にる米ソ。“核格差”を埋めるための開発競争が人類を何回も滅ぼせるほどの大量殺戮兵器を産み出してしまった現実。その馬鹿ばかしさを痛烈に皮肉ったのが本作である。原作であるピーター・ブライアントのサスペンス小説「破滅への二時間」(別代「赤い警告」)はシリアス作品であったが、映画版はキューブリックがラジカルな風刺劇として大胆にアレンジしている。世界の終末をテーマにしているが、描かれるのは世界の混乱ではなく、ワシントンの会議室での政治的駆け引きが中心となっている。人類滅亡の危機を会議室レベルに貶めることで、大量殺戮兵器を使用することの重大に対し、それに対して人々が鈍感であるという事実を浮き彫りにし、現実と認識のちぐばく具合をウィットの効いた笑いに変えている。身の毛のよだつストーリーに冷や汗をかきながら、アホらしいシーンに脱力してしまうという、緊張と緩和の同居が味わえる作品だ。
キューブリックの作品の魅力を挙げるなら、まず第一に映像と音楽の力だろう。本作では本編を挟み込む見事なオープニングとエンディングに注目したい。巨大な爆弾を曳いた輸送機が飛行する様や、往年のヒット曲「また会いましょう」を被せた水爆実験のフィルムが強烈で、作品全体を通して見ても、その映像と音楽のチョイスから並外れたセンスが窺える。しかし、本作に限っては、映像と音楽の絶大な効果に加え、主要人物を一人三役で演じ分けたピータ・セラーズの役割を無視することはできない。おそらく彼がいなければこの映画の評価は変わり、『2001年』も『時計仕掛け』もなかっただろうし、キューブリックが巨匠と言われることもなかったかもしれない。
セラーズの演じた人物の中でもっとも秀逸なのは、題名になっているストレンジラブ博士である。条件反射で大統領に敬礼してしまう右手を必死に抑える様は、後のマッド・サイエンティストの描き型に大きな影響を与えた。彼が映画の最後に飛ばすギャグも必見だ。このキレまくりの博士と較べれてしまえば地味ではあるが、イギリス大佐も素晴らしい。この人物は、物語の中で唯一の第三者という点で重要な人物だ。つまり、この映画の観客にもっとも近い立場の人物なのである。共産圏の陰謀を説く司令官に、返す言葉もなく「へ、へ、へ」とひきつり笑いを浮かべる姿は、まさに観客の代弁だ。
劇中、核それ自体の恐ろしさを印象づけるような直接的な描写はないため、ヘラヘラ笑って観ていられるが、観賞後こそ恐ろしくなってくる。実は、この映画の伝える恐怖は、核兵器の威力に対するものよりも、核の発明によって、一握りの人間に人類の存亡が委ねられることになりうるという事実に対するものといってもいいだろう。もしかしたら、その一握りの人物の頭がトチ狂っていないとも限らないのである。当時、本作はSFというくくりだったようだが、まったく絵空事ではなかったことがすぐに証明されることになった。映画の冒頭に「この映画にあるような事故は絶対に起こらないことを保証する」というちょっとシャレを利かせた但し書きがあるが、公開直後、現実に当時の軍の司令官の立場にあったある人物が精神を病んでいたという、シャレがシャレではなくなる事実が発覚してしまったそうだ。



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