謎多き覆面芸術家バンクシーの創作活動の軌跡を追ったドキュメンタリー。
バンクシー
抗うものたちのアート革命
BANKSY AND RISE OF OUTLAW ART
2020
アメリカ
113分
カラー
<<解説>>
ストリートアートの枠を超えて、現代で最も有名な芸術家“バンクシー”。社会問題や政治問題をジョークで切り取った作風は挑発的なメッセージに富み、テロリストとも形容される彼の大胆かつ巧妙な活動は世界の良識派や権力者を怒らせてきた。90年代に活動を開始して以来、活動形態や作家としての評価の少しずつ変えながらも人気を保ち続けている。しかし、アーティスト名以外はいまだ謎に包まれている。
本作は、アーティスト“バンクシー”の誕生から、美術界の寵児となった現代までの活動の軌跡を描いたドキュメンタリーである。友人のアーティスト、制作活動の協力者、伝記作家等々、多数のバンクシー周辺の人物たちの貴重な証言からバンクシーの創作の秘密やを深堀りしていく。
バンクシーの作家論や作品論よりも、彼の創作の社会的背景についての歴史的な解説に重点かれている。なぜなら、“バンクシー”は社会により必然的な生み出だされた作家であり、社会を語ることで“バンクシー”を逆照射的に捉えようとする試みのようだ。バンクシーの出身地ブリストル、ならびに、イギリスの戦後から九十年代に至るまでの政治状況。政治に反発する形で、若者の間で台頭してきたヒップホップやレイブ等のサブカルチャー。そして、“クール・ブリタニア”が象徴する新しい九十年代のイギリスの芸術運動。バンクシーの個人的なストーリーを追う評伝的な内容ではないため、生真面目で坦々としているが、“バンクシー”を通して、イギリスにおけるサブカルチャーと美術の関係を網羅的かつ俯瞰的に捉えることのできる良作である。
<<ストーリー>>
2018年、サザビーズで競売にかけられた覆面芸術家バンクシーの作品「風船と少女」が、落札された瞬間に裁断されるという全体未聞の珍事が発生。それは、バンクシー自身がしかけたイタズラであり、彼の名前は美術史に名を残すことになった。遡ること十五年前には、イギリスのテート・ブリテンをはじめ世界の七つの美術館で、自作を無断で展示するということもやってのけていた。芸術破壊を創作の起源とするその芸術家は、決して正体を明かさない。著名なアーティストだからであるとも囁かれもするるが、果たして何者なのか。
ことの始まりはグラフィティである。若者たちは競い合いながら街中に名前を絵を描いた。逮捕されるかもしれないというスリルを伴ったが、あくまで目的は認知である。彼らは出来るだけ目立つところに大きく描き、注目を浴びようとした。バンクシーも大勢いる正体不明なグラフィティ・アーティストの中のひとりだった。
グラフィティは60年代後半頃にフィラデルフィアやニューヨークで始まった。犯罪や麻薬や貧困に来るしむ若者たちの間で、街中に自分の名前や通りの名を描く“タグ”が流行になったのだ。グラフィティの実態を描いた1983年の映画「スタイル・ウォーズ」は多くの人々の刺激を与えたが、アートの面ではなく法律的な面での議論が高まり、市当局はアーティストを犯罪者扱いすることになった。このことは後のバンクシーのテーマにもなった。
「スタイル・ウォーズ」の中ではグラフィティと共にDJや音楽などをひっくるめてヒップホップとして紹介した。ヒップホップはブルックリンのような荒廃した場所で発展していく傾向があった。バンクシーの生まれ故郷のイギリス南部の小さな都市、ブリストルも同様である。ブリストルはかつては貿易で栄えた港湾都市だったが、第二次大戦で破壊されたことで、労働者階級が流出して荒廃していた。だが、80年代になると、この大きくも小さくもない街の中で多様な文化が急速に発展し、マッシヴ・アタック、トリッキーなどの音楽アーティストが誕生することになる。
サッチャー首相による社会保障の削減するなどの経済改革で、イギリスの産業は衰退の一途を辿り、北部と中部の都市はゴーストタウン化していった。サッチャリズムというカネ重視の価値に抵抗した若者たちは、サブカルチャーとしてニューヨークからヒップホップを取り入れ、反権威的な姿勢をとるようになった。“3D”や“デルジ”の愛称で知られるロバート・デル・ナジャは、80年代をニューヨークで暮らし、グラフィティをブリストルに持ちかっえった張本人でり、幼少のバンクシーにも影響を与えた人物である。
グラフィティとヒップホップや音楽集団は、互いを刺激し合うことで盛り上がりを見せて行った。特に勢いのあった集団が“ワイルド・バンチ”である。グラフィティの流行の引き金となったのは、ヒップホップ・カルチャーを描いた映画「ワイルド・スタイル」であり、映画を観た若者たちがこぞってグラフィティを描き始めた。こうして、グラフィティが盛んになった頃には、第一人者のデル・ナジャはグラフィティを引退し、マッシヴ・アタックを結成することになる。
治安の悪さで名の轟くバートンヒルのユースクラブ。そこにある壁はグラフィティのために解放されていて、グラフィティを描き始めた若者たちの出会いの場となっていた。バンクシーも毎週そこに通って絵を描いていたという。ユースクラブは線路の裏という立地から一日中自由に描けたのものの、グラフィティ本来の魅力が欠けていた。すなわち、危険を冒すスリルと街で名声を得ることである。若者たちはユースクラブを踏み台に街へ出て作品を描いた。危機感を持った市とイギリス交通警察は、アーティストの取り締まり乗り出した。“アンダーソン作戦”と名づけられた大規模摘発により、七十二名のアーティストが逮捕。地下活動を続けた過激なアーティストだけが残り、初期グラフィティ・アーティストに続く次世代のアーティストとして登場したのがバンクシーだった。90年代初頭のことである
バンクシーはフリーハンドで描く技術の高さと制作場所についての発想に優れ、その才能は仲間内ですぐに見出された。最も目立つ場所に作品を書くことが彼にとっての重要なテーマであった。当初は無名だったが、初期の作品からも現在に通じる社会へのメッセージを視ることが出来る。
その頃、イギリスの音楽に変化が生じていた。ハウス音楽が入り、非合法とレイブが増えてきたのだ。人頭税の導入で国民の大反発を受けて失墜したサッチャーを継いだメージャー首相は、反社会的なグループへの弾圧を打ち出した。集会の摘発を可能にする刑事司法・公共秩序法を成立させ、五人以上で反復するビートを聴く人々の集まりを取り締まるようなった。人頭税の暴動や政府よる抑圧は、バンクシーが政治的な問題に関心を持つきっかけになったという。彼の作風にも変化が起こり、デル・ナジャの得意としたステンシルの手法を取り入れ、それが彼の重要な表現となった。ステンシルは、工房でじっくりアイデアを練ることが出来るという利点があり、現場で素早く描けるので捕まる心配が少ない。また、完成した作品も、分かり難いタグと違い誰でも理解できた。
グラフィティ発祥の地であるニューヨークでのアートの変化はいち早かった。バスキア、キース・ヘリングといったグラフィティから距離を置く、新しいストリートアートが登場していたのだ。バンクシーはそういったアートの変遷にも関心を寄せていたのが、彼にもっとも大きな影響を与えたはフランスのブレック・ル・ラットである。ブレックは、グラフィティと政治的主張を壁に書くヨーロッパの文化を融合させたストリート・アーティストである。そして、彼のサインはネズミであった。
路上で描くグラフィティ。ステンンシルの技術。そして、政治活動家の視点。この三つの特徴を合わせ芸術テロリストとして、既に九十年代には、イギリスのテレビ局が彼の制作現場を取材に来るほどの注目を集めていた。たちまちブリストルを代表するアーティストになったバンクシーは、ストリートアーティストたち一緒にブリストル港に合法的な作品を描くイベントを主催。さらに、2000年にはレストランで展覧会も開催した。
グラフィティから離れ現代芸術の道へ向かう一方、違法な制作も続けていた。ポスト・グフィティ・アーテイストとして、新たな表現の模索をしているのである。バンクシーの作品の技法的な特徴として挙げられるのは次のようなことである。路上に描くため観客は選べないので、あらゆる人種・宗教に受け入れられること。誰もが知っているアイコンを好んで用いるので親しみやすく、はじめて芸術を理解できた気分になれること。どの作品にもジョークが含まれ、社会問題を面白おかしく表現していること。動物や子供などイノセンスを象徴するモチーフが多用される一方、権力を象徴する警官や兵士のモチーフも対比的、とりわけ同情的に用いられること……。