喜劇王チャップリンの生涯を描く伝記映画。

チャーリー

CHAPLIN

1992  アメリカ

143分  カラー



<<解説>>

『ガンジー』のリチャード・アッテンボローが、喜劇王チャップリンの生涯を題材に、華々しい成功の裏の孤独や苦悩を描いた伝記もの。ロバート・ダウニー・Jrが、背格好、表情、しぐさまでチャップリンになりきり、青年期から老年までを好演している。
チャップリンが伝記を執筆した1963年を劇中の現在として、原稿を仕上げるために、今一度過去を思い起こしていくという体裁で、彼の人生が語られていく。第三者や神の視点ではなく、老境の自分自身により語られる伝記(という設定)であるところが本作のユニークなところである。ほぼ事実に基づいて描かれているようだが、チャップリン自身に、「思い出したくない過去」と言わせているように、あまり愉快ではないエピソードばかり。成功までの苦労はあっただろうが、その部分はほとんど語られることはない。天才的才能でとんとん拍子にスターの階段を駆け上がっていくところは、単なる映画スターのサクセスストーリーにはしないという製作者の意欲の現れだろうか。
編集者にせかされてしぶしぶ語る内容は、周囲からの批判を浴びながらも、未成年との結婚と離婚を繰り返したことや、博愛主義に基づく政治風刺的な作品が保守派に目の敵にされて赤狩りに遭い、ついには国外追放されるといったもの。多少は幻想的な演出を加えてはいるが、それでもなお暗い内容である。あげくの果てに、これだけ偉大な映画人が人生に悔いを残しているような意味のことを吐露する場面は衝撃的で、喜劇王としてのチャップリンや、彼の演じた浮浪者のキャラクターのイメージとは異なる、人間臭い部分を詳らかにする。人生をネガディブにとらえていたチャップリンが、アカデミー賞授与式の特別上映で、自分の作品を観ることで救いを得られるラストは、ファンも納得がいくのではないだろうか。



<<ストーリー>>

1963年、スイスのヴェヴェ。老境の喜劇王チャールズ・チャップリンは、自伝を執筆中だった。編集者のジョージから原稿にあいまいな部分が多すぎると指摘されたチャールズは、あまり思い出したくない過去を今一度思い起こしていった。
1989年、イギリスのオルダーショット。チャールズの家庭は貧しい母子家庭で、母は芸人だった。父も寄席芸人だったというがチャールズは一度も会ったことがなかった。母が舞台上で歌を忘れて絶句してしまったことがあった。袖で見ていたチャールズは、母の代わりに舞台に上がり、いつも聴いて覚えてしまっていた歌の続きを歌った。それが彼の初舞台だった。
母は日常的に精神が不安定になり、チャールズは一年間施設に預けられた。種違いの兄シドニーはその間に船乗りになった。その七年後。チャールズは、錯乱状態のひどくなった母を持て余してしまい、彼女を病院に預けた。
さらに二年後のテムズ河畔。チャールズはシドニーの誘いで、大興行師カルノーのところで芸人をすることになった。シドニーはチャールズに歌や踊りがさせるつもりでいたが、カルノーが必要としていたのは道化だった。ロンドンのハックニー劇場で、チャールズは酔っ払いの観客を見事に演じ、喝采浴びた。
チャールズは新人の踊り子ヘティに恋をした。彼女はまだ十六歳だった。チャールズは初デートでヘティに結婚を申し込んだが、その直後、アメリカ巡業のため離れ離れになってしまった。
1913年、モンタナ州ビュート。チャールズはふとのぞいた小屋で映画が上映されているのを目にした。チャールズはすぐに映画に夢中になった。そんな折、チャールズのもとに西海岸から映画への出演依頼が届いた。例の酔っ払いの演技を見初めての抜擢だった。
チャールズは映画監督マック・ネセットに週150ドルで雇われることになった。「映画は速度だ」と豪語し、作品を量産するマックから、チャールズは映画作成のいろはを教わった。
はじめのうち、チャールズは役者としてまるで使い物にならなかったが、一ヶ月後、“放浪者”のアイデアという天啓を受けた。衣装部屋にいたチャールズは、吸い寄せられるように、山高帽、竹のステッキ、よれよれの燕尾服、どた靴を身にまとったのだ。放浪者のキャラクターは大ヒット。マックにも見直された。
チャールズは役者として自意識が高まるにつれ、自分より若い女性監督のメイベルに指図をされるのに絶えられなくなっていった。チャールズはマックに頼み、自分で監督をするようになった。年内に二十本の撮り上げたチャールズは、みるみるうち人気者になった。シドニーがやってきたのはそのころだった。チャールズはシドニーからヘティが結婚したことを知らされショックを受けた。シドニーはその後、チャールズのマネージャになった。
チャールズは自分のスタジオを持ちたいと思うようになった。そのためには金が必要だった。チャールズは仕方なく、恩人のマックと手を切り、カウボーイ劇団のブロンコ・ビリーと手を組んだ。エドナ・パーヴィアンスと出会ったのはその頃のことだった。
チャールズはエドナをヒロインにして「移民」を撮った。だが、その政治風刺判色の強いその作品を観たシドニーはチャールズに忠告した。外国人がこの国を批判することがどんなに危険であるかということを。
チャールズはパーティは好きではなかったが、ダグラス・フェアバンクスのパーティには好んで出席した。チャールズは、サービス精神旺盛な愉快な大スター、ダグラスを気に入り、彼との交友はその後も長く続いたのだった。ダグラスのパーティで、チャールズはミルドレッド・ハリスと出会い、恋に落ちた。彼女もまた未成年の十六歳だった。
1918年、ハリウッドのラ・ブレア通り。チャールズは二十代で自分のスタジオを持った。そして、彼は世界世界一の有名人にもなっていた。だが、今にして思えば、その頃の彼には楽しむ余裕がなかった、と老チャールズは振り返った。
ミルドレッドの妊娠を期にチャールズは彼女と結婚した。祝賀会では、後にFBI長官としてチャールズの宿敵となるフーバーも同席していた。独自の保守思想で外国人批判を展開するフーバーの講釈に、チャールズはしらけきっていた。その時、チャールズは、ダグラスの恋人のメアリー・ピックフォードからミルドレッドの妊娠が嘘だと知らされた。
ミルドレッドの嘘は夫婦の間のひびとなった。冷え切った夫婦生活の終焉の時になり、ミルドレッドは弁護士の入れ知恵で、チャールズの作品を財産の一部として差し押さえてしまった。1920年のことだった。チャールズはシドニーらと共に新作「キッド」のネガをこっり持ち出し、ユタ州のシルトレークの安ホテルで編集したのだった。チャールズとシドニーは母をアメリカに迎えた。だが、母の病状は悪く、チャールズは再び持て余してしまうのだった……。