黒澤明が自身の見た夢をオムニバス形式で映像化したファンタジー。
カラー5作目。



1990  日本/アメリカ

119分  カラー



<<解説>>

『乱』に続く、黒澤明の五本目のカラー作品。監督自身が見たという夢を映像化した八篇からなるオムニバス。スピルバーグが製作総指揮をとった日米合作であったため、資金面に関してはそれほど苦労はなかったようで、晩年の作品の中ではいちばん華やかな作品となった。ILMがVFXを担当した美しい映像も見もの。監督自身を劇中に写した“私”を演じるのは、晩年の黒澤作品の顔である寺尾聰。共演が倍賞美津子、笠智衆といった日本を代表する俳優の他、マーティン・スコセッシ、いかりや長介という意外なキャスティングも話題に。
黒澤作品はカラーになって以降、絵画的になったと言われている。絵画的な表現は『乱』で色濃くなったが、その傾向の頂点に達したのが本作と言えるだろう。これまで敬遠してきた特撮を積極的に駆使し、夢のイメージを見事に表現している。一方で、黒澤作品の大きな魅力の一つであったリアリズムは徹底して廃されいる。その点では、浮世離れした人々の姿を描いた群像劇であったカラー作品第一作『どですかでん』にも通ずるものがあるが、今作はさらに詩的になっている。夢の話だから当然と言えるが、リアリズムが失われたことは一部のファンを戸惑わせた。ドラマよりもイメージへ興味の方向が変ったことを、感性の衰えととるか、老練ととるかは分かれるだろう。しかし、いずれにしても、年齢に見合った感性を恥じず、それを以前にも増した情熱で素直に表現したところが本作、ひいては晩年の作品の魅力なのではないだろうか。
本作は、これまでの黒澤作品のように観る者を熱狂させたり、考えさせられたりするのではなく、とにかく不思議な気持ちにさせてくれる。それは監督の心に一瞬、触れたような感覚になることが大きいが、単に私的なイメージを素直に観客に披露しているだけではない。前半は日本の風情をノスタルジックに描いた“私”の少年時代、中盤は雪山の中、トンネルの中、絵画の中で迷い悩む“私”の青年・壮年時代、後半は世界の終末を悪夢として描き、そして、最後の葬列で自らの最期を暗示する。監督の半生に文明批判を重ねて描き、エピソード全体で一大叙事詩を紡ぐような構成は圧巻。また、ラストの葬列が冒頭の花嫁行列にダブらせ、全エピソードがリインカネーションのように円環する構成をとることで、夢の世界を映画の中に閉じ込めることに成功している。本作は晩年の傑作であることは間違いない。しかし、本作が真に輝くのは、観客が当時の監督に近い年齢を重ねた時であろうことも想像できる。



<<日照り雨>>

ある日、まだ幼い私は狐の嫁入りを見てしまった。家に帰ると母親が、さっき狐がやって来たと言った……。

<<桃畑>>

桃の節句の日、子供の頃の私は、見知らぬ少女にひかれるように後についていった。たどり着いた桃の木が並ぶ段々畑には、人と同じ大きさの雛人形が勢ぞろいしていた……。

<<雪あらし>>

登山家の私は、仲間と一緒の登山中に猛吹雪に遭い、遭難した。私はうっかり、眠ってしまい……。

<<トンネル>>

中隊長の私の前に、トンネルの中から全滅したはずの小隊が現れた。兵隊は一様に青い顔をしていた……。

<<鴉>>

学生の頃の私は、ゴッホの絵を見ているうちに絵の中に入ってしまい……。

<<赤富士>>

富士山が噴火し、原発も破壊された。放射能の霧から逃げた人々は海へ身を投げた。そして、ただ一つその場に留まった私たち一家は……。

<<鬼哭>>

核戦争後の荒涼とした世界で、私は鬼と出会った。鬼はかつては人間であった……。

<<水車のある村>>

私は名も無い村にやって来た。その村には電気もなく、人々は自然と共に暮らしていた。私が佇んでいると、向こうから賑やかな行列がやってきた……。