落ち目のコメディアンと彼に命を助けられた自殺未遂のバレリーナの愛を描くドラマ。

ライムライト

LIMELIGHT

1952  アメリカ

137分  モノクロ



<<解説>>

アカ狩りのあおりを受けてアメリカを追われることになったチャップリンが、アメリカで最後に製作した作品。同時にユナイトでの最後の作品でもある。物語は、主人公である落ち目のコメディアンと、自殺未遂を起こしたバレリーナの淡い恋を、落ちぶれていくコメディアンの絶望の中に描いていく。コメディアンしての自信の揺らぎや、若さへの羨望など、チャップリンが当時の心境を吐露したようなメッセージが心に迫る作品である。同じサイレントの喜劇スターとして、ライバル視されてきたバスター・キートンが、チャップリン演じる主人公の芸の相棒として出演している。
例によって、彼自身が主演も務めているが、そのキャラクターは、これまでのコメディ作品とは決定的に異なっている。主人公は、コメディアンとしても峠を越えていた彼自身を投した姿である。白塗りチョビ髭のチャーリーはそこはいない。作られたキャラクターは借りず、今回はじめて映画で素顔をさらし、等身大の自分自身を演じている。物語の時代設定が、彼が映画の世界で頭角をあらわし始めた1914年であり、その舞台が彼の原点であるイギリスに設定されていることも興味深い。これは、自分自身の物語であることを宣言しているかのようだ。
物語には、不本意な形でアメリカを追われることになったチャップリンの失意が如実に現われている。皮肉屋に戻った次回作『ニューヨークの王様』では、どこかふっ切れたものがあるようだが、本作は、気持ちがいちばん沈み込んでいた頃に作られたかのようだ。皮肉はすべて自分自身に関するもので、全体的にひじょうに感傷的な印象を受ける。「熱演のあまり、舞台から転落する」は、さしずめ、当時のチャップリン自身の状況の隠喩(熱演=『独裁者』『殺人狂時代』、転落=アメリカ追放)といったところだろう。ユーモアは健在で、白塗りのチャーリーがやっていたのと似たようなギャグも飛ばしたりするが、やはり、素顔でやると心なしか物悲しいものがある。
この時、チャップリンが本当に絶望していたかどうかは分からないが、コメディアンとしての自分の最期について考察を行なうには、最良の時期だったに違いない。そして、それが、自分自身への癒しも兼ねていたようだ。コメディアン人生の最期に、最高の芸を演じ、最高の喝采を浴びるカルヴェロ=チップリン。「歩くたびに足が短くなる」など、自身のパントマイム芸を模した舞台の場面は、ぐっと込み上げるてくるものがある。しかし、カルヴェロが受けた喝采が本物か偽物だったのかは、ぼかされたまま。果たして、カルヴェロは本当に有終の美を飾ったのか? いや、そもそも、喝采が本物であろうが偽物であろうが、当人には些細なことだったのかもしれない。いずれにしても、ラストに多様な解釈が出来る余地を残したのは、『街の灯』よりも意識的だ。



<<ストーリー>>

1914年のロンドン。かつては一世を風靡し、今は落ち目になった老境コメディアンのカルヴェロは、ある日、自殺未遂を起こした若いバレリーナのテレーザの命を助けた。カルヴェロは、テレーザが元気になるまで、彼女と一緒に暮らすことになった。
テレーザは精神的な要因で足が動かなくなっていたが、カルヴェロに勇気づけられ、やがて歩けるようになった。一方、カルヴェロは久しぶりの仕事で舞台に立つが、失敗してしまった。今度は、テレーザが、自信を失ったカルヴェロを勇気づける番だった。
すっかり快復したテレーザは、バレリーナとして復帰し、劇場で踊るようになった。カルヴェロはテレーザの勧めで、彼女のバレエに道化役として出演することになった。だが、偶然にも、そのバレエの作曲家は、テレーザが過去に思いを寄せていたネヴィルであった……。



<<キャスト>>

[カルヴェロ]
チャールズ・チャップリン

[テレーザ・アンブローズ]
クレア・ブルーム

[ポスタント]
ナイジェル・ブルース

[カルヴェロの相棒]
バスター・キートン

[ネヴィル]
シドニー・チャップリン

[ボダリンク]
ノーマン・ロイド

[アルソップ夫人]
マージョリー・ベネット

[テレーザの医師]
ホイーラー・ドライデン

[辻音楽家]
ジュリアン・ルドウィグ



<<スタッフ>>

[監督/原案/脚本]
チャールズ・チャップリン

[撮影]
カール・ストラス

[音楽]
チャールズ・チャップリン

[助監督]
ロバート・アルドリッチ



<<プロダクション>>

[提供]
ユナイテッド・アーティスト