第一次世界大戦後、国の支配権を握った総統と
記憶喪失の理髪師が取り違えられてしまう。
独裁者の狂気を描くコメディ。

チャップリンの
独裁者

THE GREAT DICTATOR

1940  アメリカ

124分  モノクロ



<<解説>>

チップリンの長編6作目で、彼の初のトーキー(発声映画)作品。なぜ、頑なにサイレント(無声映画)にこだってきたチャップリンが、トーキーを撮る(採る)に至ったか? そもそも、サイレントにこだってきたのは、チップリン映画で定着していた放浪紳士チャーリーのキャラクターのイメージを壊したくないという思いがあったという。前作『モダン・タイムス』は、チャップリン初のトーキーとなるはずだったが、結局、クライマックスの歌の部分でしか、チャーリーは声を発することはなかった。あくまで、チャーリーは、パントマイム専用のキャラクターなのである。しかし、今回は、チャーリーに喋らせるというリスクを避け、代わりに床屋という定職を持った主人公(風貌は放浪紳士の面影を残しているが)に意味のある台詞を喋らせることになった。放浪紳士チャーリーを捨ててまで、本作はトーキーで撮られる必要があったのだ。
放浪紳士チャーリーを通じて、世の中を客観的に見つめるといった作風が主であったチャップリンだったが、今回ばかりは、彼の個人的な強い思いが込められた作品となった。世界に対して、明確な言葉を使って訴えたいことがあったのだ。すなわちそれは、ヒトラーに対する怒りである。本作はトーキーで撮られたのも、有名なラストの演説のシーンのためだと言っても良い。チャップリンが憎み、それをコメディとしてチャカしてきた人間の“悪意”や“狂気”。ヒトラーとは、チャップリンにとって、憎むべき“悪意”や“狂気”を象徴する人物だった。二人は同い年であったということが知られているが、そのことがよりヒトラーを意識させ、同じ時代に生きた人間として許せなかったのかもしれない。パントマイムですべてを伝えようとしていた男が、ついに声を出さなければならなくなったということに、その怒りの度合いが窺えそうだ。
本作が製作が開始されたのは、意外にも、アメリカが第二次大戦に参戦する直前である。国内では、ファイズムの勢いもそれほど危険視されていなかった時代で、ヒトラーも必ずしも非難の対象ではなかった。誤解があるかもしれないが、本作は、この時代の戦争映画にありがちなように、対ドイツのためのプロパガンダの目的で作られた国策映画ではなく、ましてや、政府筋から命令されて作られたものでもない。むしろ、チャップリンが周囲の反対を押し切ってまで、自発的、積極的に作った映画である。チャップリンはヒトラー=ナチスの脅威と本質を早くから見抜き、それをいち早く世の中に訴えたのだ。この映画に描かれてる出来事は、今から思えば、予言的だったと言えるだろう。ちなみに、本作の製作中、チャップリンはしばしば、ヒトラー=ナチスのシンパからの脅迫を受けたと伝えられている。
チャップリンはこれまで、人間の“悪意”や“狂気”をカリカチュアし、よりオーバーに演じることで、観るものにそれを訴えてきた。しかし、人間の“悪意”や“狂気”は、二度目の世界大戦を前して、チャップリンのパントマイムを超えてしまったのである。もっとも恐るべき狂気であるところのファシズム、そして、ヒトラーという人類最大の狂気に対し、チャップリンは手加減という安全装置を外して、ついに、本気出す。デタラメのドイツ語の演説で、独裁者の虚飾を暴き、風船の地球儀をもて遊ぶ姿で、世界征服の夢に酔いしれる独裁者の滑稽さを抉り出す。しだいに熱を帯びるチャップリンの芝居。ヒトラーの狂気に挑むかのような、その狂演は、観客にたいして暴力的に襲い掛かる。もう、ただ、ただ、圧巻。不謹慎な表現になるが、チャップリンのヒトラーへの異常とも思える怒りは、もしかしたら、彼を狂気の表現者としてライバル視していたからなのかもしれない(実際、ヒトラーの所業は別として、彼の演説が芸術的であったことは、異論の余地がないだろう)。
独裁者ヒンケルを演じるチャップリンの渾身の芝居ばかり印象に残るため、実のところ、あまり愉快な映画ではない。しかし、その愉快でない題材と内容である一方、彼本来のパントマイム芸の真骨頂も十分に楽しめる作品となっている。床屋を二役で演じるチャップリンの芝居は、攻撃的なヒンケルとは正反対に、非常に洗練されたものだ。おなじみのドタバタ劇もさることながら、トーキーであることを活かし、音楽とのシンクロさせた流麗なギャグが素晴らしい。ブラームスの「ハンガリー舞曲第五番」に合わせ、器用にひげをそる場面は、特に秀逸だ。
前作『モダン・タイムス』で巧みな構成の物語を見せたが、本作ではさらに洗練されている。それは、おそらく、ラストシーンから帰納的に考えられたストーリーであるからだろう。必然と偶然がバランスよく積み重ねられ、ヒンケルと床屋の二つの物語が同時進行。その二つの物語収束するラストに向かい、突っ走って行くような疾走感があり、チャップリンとは思えないほど、ハラハラするストーリー展開で楽しませてくれる。ラストも単なる個人攻撃では終わらず、世界をより良くするには、独裁者に服従しないこと、すなわち、個々人が人間の尊厳を守ることが最重要であることを伝えることで結んだところも感動的だ。でいる。これまでの長編より、ぐっと上映時間を延ばし2時間を越える作品となったが、まったく長さを感じさせないのだ。本作は、ヒトラー=ナチス批判を主な目的とした作品であるが、計らずも、チャップリンの到達点を見せる結果となった。そして、もちろん、コメディ映画史上最高峰の作品となったのである。



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